お父様は使命途上で亡くなった。
まるでモーセが、神から旧約のみ言をいただきながら、カナンの地に入れず亡くなったように。
まるでイエス様が、神からの新約のみ言を語りながら、使命途上で十字架で亡くなったように。
お父様も、神からの成約のみ言を語りながら、使命途上で基元節を迎えることなく亡くなった。
でも希望はある。
アブラハム、イサク、ヤコブと三代をかけて勝利していったように、孫の代には勝利するのだ。
お父様は使命途上で亡くなった。
まるでモーセが、神から旧約のみ言をいただきながら、カナンの地に入れず亡くなったように。
まるでイエス様が、神からの新約のみ言を語りながら、使命途上で十字架で亡くなったように。
お父様も、神からの成約のみ言を語りながら、使命途上で基元節を迎えることなく亡くなった。
でも希望はある。
アブラハム、イサク、ヤコブと三代をかけて勝利していったように、孫の代には勝利するのだ。
イエスは「汝の敵を愛し、迫害する者の為に祈れ」と語り、
アボシは「恩讐を愛せ」と語った。
統一教会はアボシの教え通り、キリスト教からは異端だとされながらも、超宗教活動を続けてきた。ところが、身内の分派に対しては徹底して排除してきた。他宗教には寛大でありながら、同じ教義をベースにしている分派には厳しい。これ自体が矛盾なのではないか?
分派に対し裁きまくり、活動している人を除名する。これが愛に満ちた行為と言えるのか?
コリント人への第一の手紙 第13章
:01)たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。:02)たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。:03)たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。:04)愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。:05)不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。:06)不義を喜ばないで真理を喜ぶ。:07)そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。:08)愛はいつまでも絶えることがない。
イエス様やお父様の示された愛を理解出来ていれば、イエス様は殺されることなく、御子女様や分派への魔女刈り的行為も行われなかっただろう。
もっと寛大になってもいいのでは?
ある人が文先生に、
「あなたはメシヤですか?」と質問した。
それに対し文先生は、
「あなたもメシヤになりなさい。」と答えた。
この話は、イエスの語られた、
「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」マタイによる福音書5:48
に通じる話だ。
つまり、どんなに信仰を持ち救いを信じていようが、多額の献金をしようが、洗礼や祝福を受けたからといって、天国に入れる訳ではない。
結局、自分自身が神様の実子となり、イエスのような人間にならない限り天国には入れないということだ。
では、イエスのような人間とは、、続く、、