愚かな弟子達の原理の悪用
原理講論 2章4節(3)
目的性から見た善と悪
善と悪とは、同一の意味をもつものが、相反した目的を指向して現れたその結果を指していう言葉なのである。
したがって、我々が、しばしば悪であると考えてきた人間の性稟も
それが神のみ意を目的として現れるときには善になるという例を、いくらでも発見することができる。
例えば、イエス様も嘘をついた。
『はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る』と、再臨がすぐにでもあるかのような大嘘をついた。
予測される苦難な歩みを励ます為のイエス様の方便なのだが、それを信じたクリスチャンは皆『主よ来たりませ』と2000年祈ってきた。
また、モーセがイスラエルの民を率いてカナンの地に向かった時、神は『カナン七族をことごとく打ち滅ぼせ、女も子供も老人も生かしておくな』と命じた。
400年前は自分達の土地だったからといって、いきなり侵略して住民を全て殺害するなんて、イラクのクウェート侵略の様な野蛮な行為だ。
しかしこれも、神の摂理からみれば善なる行為といえる。
つまり、神の摂理と一致した行為であれば、この世的にみて犯罪行為だとしてもそれは善なる行為になるということ。
ノアの方舟だって、見方を変えれば、ノア家庭以外の人類を滅ぼした、神の名による大量殺戮ともいえる。
故に、統一教会の行った、インチキカンパや霊感商法等さまざまな嘘や騙しは、神の摂理と一致した善なる行為である。
(愚かな弟子達の原理の悪用)
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